開業50年「通天閣」文化財登録に寄せて(2006.12.29)

通天閣観光株式会社代表取締役社長  西上 雅章

 

   初代の通天閣

「温故知新」、古きを尋ねて新しきを知るという有名な言葉がございます。この言葉は、私にとって、先人達の創業の思いと重なる特別な意味をもっております。

今の「通天閣」は二代目です。初代の「通天閣」は明治45年(1912)に建設されました。明治36年(1903)に現在の天王寺公園周辺で開催された第5回内国勧業博覧会の跡地に「ルナパーク」という遊園地が誕生し、その周辺には様々なお店が軒を連ね、幾つもの娯楽施設が街を賑わしていました。初代の「通天閣」は、そんな当時の大阪を代表する歓楽街「新世界」のシンボルタワーとして建てられたのです。そのデザインは、パリのエッフェル塔と凱旋門を合体させたような破天荒なもので、高さ64mと当時では東洋一高い建物であり、その雄姿に相応しく天に通ずる建物という意味で「通天閣」と名づけられました。

ところが、昭和18年(1943)に火災に遭い、初代「通天閣」は約300トンもの鉄材に姿を変えて、大戦の真っ只中にあったお国へと献納されました。繁栄を極めた「新世界」も昭和20年(1945)の大阪大空襲で焼け野原となってしまいました。

   現在の通天閣

一度は焼失した街のシンボルを復活させたいという声が沸き起こったのが、昭和29年(1954)のこと、敗戦から9年が経ち、我が国が戦後復興から成長へと走り始めた頃のことです。「通天閣を愛する地元の力で再建させたい」そんな思いを胸に、幾多の苦難と苦労を重ねて、壮大なプロジェクトが一歩ずつ進められて行きました。そして昭和31年(1956)10月28日、ついに通天閣再建という悲願が、地元の力によって達成されたわけです。

あれから50年、この半世紀を顧みれば、決して順風満帆な道のりではありませんでした。風雪入り混じり幾つもの経営危機にも直面しました。しかし、今日こうして50年前と変わらぬ姿で「通天閣」を守り続けることができ、あらためて先人達の偉業に思いを馳せるとともに、「新世界」の住民であることを誇らしく思えてなりません。

この度、国の登録有形文化財に登録されるという有難いお話をいただき、正に先人達や地元住民の永年の功績が認められたようで、本当に嬉しく思います。これまでも、そしてこれからも、「通天閣」は地元住民の手作りによる文化遺産であり、街のシンボルであります。先人達の思いを私達が受け継ぎ、そしてまた次の世代へと受け継いで行きたいと考えております。

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