トップ 活動 お知らせ 資料 登録方法 会員の広場 文化財の写真 年報 文・随想 目的・組織 入会 リンク

登録有形文化財を写真で紹介します

アイウエオ順に配列しております。

青山ビル:中央区伏見町に所在。以前は大阪の主要道路であった堺筋を西に入ったところで北面する。西隣は登録文化財の伏見ビル、東方向は堺筋に面して重文の旧小西家が見え、近代大阪の都市景観の一部を残す部分でもある。このビルは大正14年(1925)に食料品を商う野田屋三郎の住宅として建築されたが、近代建築に愛着のある現所有者が購入後は、部屋の天井や壁面の彫刻を生かして、事務所、洋品店、喫茶店、レストラン等として活用している。小さくても存在感のある建築として受け継がれている。
浅野家住宅:八尾市久宝寺にある。戦国時代に蓮如上人が創建した西証寺(顕証寺)を中心に発展した久宝寺寺内町の中でもある。江戸末期の建設で、裏の畑には享保以前の土塁と堀が残っており、過去の町屋の景観を継承しているようである。主屋のほか蔵、納屋が登録文化財である。主屋の平面形式は四間取りであるが、土間は広く大庄屋に相応しい建て方である。基本的な形は変えずに美しく改装され、つし2階の部分も部屋として利用している。主屋前面の通りにも寺内町の歴史的景観が良く維持されている。
新井家住宅:泉佐野市中庄で代々庄屋を勤めた新川家からの出自で、明治以後は新井の姓を名乗っている。大正末期から昭和初期にかけて株取引で莫大な財をなし、昭和7年(1932)頃に住宅と迎賓館を兼ねた本邸を建設した。「新井の別荘」として親しまれている。小高い丘陵上に、主屋ほか座敷等6件が落ち着いた雰囲気を醸し出している。広い庭園の中にコの字型に配置された座敷は、2部屋を開放すると25畳になる。施主が郷里に建てた、上質な材料と高度な技術を駆使した近代和風建築の典型として貴重。
池田家住宅:住吉大社の東参道である旧熊野街道と旧住吉街道の交差点に建つ。江戸時代は酒造業を営み、明治の初めからは味噌作りを始め、「住之江味噌」の名でよく知られている。建物は明治25年(1892)頃の建設と伝えられ、2階壁面に虫籠窓を開く重厚な外観であり、町屋としての特徴をよく表わしている。土間部分は店として、居室部は3室構成とする。北寄りに設けられた「通り庭」の奥は味噌の製造所である。創業以来400年の老舗の風格を示す町屋建築であり、地域の歴史的景観の核として貴重。
池田谷家住宅:泉佐野市大西にある。大正から昭和にかけて大阪で活躍した建築家、池田谷久吉の自宅である。池田谷は市立大阪工業学校を卒業後に設計事務所を開設し、住宅、商店等などの設計に携わる一方、社寺建築、考古、郷土史等の研究活動を行った。博学な日本建築史の知識をもとに、登録文化財金光教玉水教会、岸和田城等を設計した。自宅と蔵は昭和2年(1927)の建設で、蔵は当主の仕事場兼書斎、茶室の床柱等は奈良の古寺から譲られた古材を活用しており、地域の文化サロン的な役割にも使われたようである。
池永家住宅:西淀川区野里にある。大阪から尼崎に向かう大和田街道が、中津川を越えて最初にある渡しである「野里の渡し」は有名で、近くの野崎住吉神社で行われる「一夜官女神事」もよく知られている。当家は豪農の家系であるが、18世紀以前の資料は失われ、詳細はわからない。主屋、長屋門等5件が登録されている。主屋は、もと茅葺きの平屋形式であったが、明治以降に切り妻瓦葺に変更された。当初の四間取り平面も後に増築されている。大阪市内で、極めて古い時期の屋敷構えがよく残っている貴重な建物である。
生駒時計店:中央区平野町交差点の南西角にある。大正から昭和に関西で活躍した高潔な建築家として知られる宋兵蔵が設計し、昭和5年(1930)に竣工した。鉄筋コンクリート造5階建の屋上塔屋に大時計をつける。外壁面は櫛引き溝のある茶褐色のスクラッチタイルによる地味な色合いであるが、窓台、丸窓、獣神像の飾りなどは、重厚かつ華やかな意匠である。かつては大阪のメインストリートであった堺筋におけるランドマーク的存在であり、都市の歴史的景観の一つとして重要である。

旧和泉銀行本店(C。T.L.BANK):岸和田市北町にある。昭和8年(1933)和泉銀行本店として建設。その後阪南銀行、大阪銀行、さらに戦後は住友銀行、岸和田信用金庫、泉州信用金庫、南大阪信用金庫、そして、大阪信用金庫を最後として銀行の役割を終えた。平成16年に地元企業が銀行当時の歴史意匠を尊重して改修、3つの会社の頭文字をとって名づけた。鉄筋コンクリート2階建、中央玄関2層分は半円アーチとしてスクラッチタイル貼りとする。改装は大きいが岸和田の近代史を伝える建築として貴重。

逸翁美術館:逸翁美術館旧館は、阪急電鉄の創業者である小林一三(雅号・逸翁)の旧邸である。小林は、本建物を自ら収集した芸術品を広く公開する自邸として建設した。中心の建物である旧本館は昭和12(1923)年の建築で、イギリスの古建築を思わせるデザインを取り入れ、美術品の収蔵を考えた耐火構造となっている。茶室は「即庵」と「費隠」の2軒あり、即庵は座式と立礼式を組み合わせた進歩的な茶室、費隠は京都の寺院にあったという茶室を移築した伝統的な雰囲気を有する茶室である。正門は豊能郡豊能町から江戸時代に建築された長屋門を移築したと伝える。こうした建物の構成は、小林一三が理想とした芸術と生活の一致をよく表現しており、小林一三の死後も逸翁美術館として現在にその姿を伝えている。

宇野薬局:中央区徳井町にある。大阪の中心商業地区として人形店やおもちゃ屋で有名な松屋町筋に面する。昭和9年(1934)に堺筋の拡幅に伴う軒切によって建替えられた。木造3階建で外壁は黄褐色のタイルを貼り詰め、緑色に塗装した窓枠や丸窓でアクセントを付けている。設計事務所が設計し西成区の大工の施工であるが、伝統的な日本の建築技術を熟知した大工の主張により、和風の堅固な通し柱構造に変更された。周囲に高層ビルが密集する中に存在する、伝統技術を用いた昭和初期の商家建築である。

遠藤家住宅:住吉区で大正期に開発された帝塚山住宅地の一画に建つ。当家は敷地周囲を囲む赤い煉瓦塀の中にある洋館である。大正11年(1922)に建築家ヴォーリズにより設計されたもので、設計書には宣教師館とされる。当時は周辺にあまり住宅はなかったが、クリーム色のスタッコ壁、赤い屋根から突き出た2本の煙突等にヴォーリズ設計のミッションハウスとしての特色がよく出ている。ヴォーリズは、日本の中流階層における健康で快適な洋風モデル住宅を提案しており、彼の建築思想を実感できる好例である。

小川香料大阪支店:本建物は大阪市中央区平野町にある。周辺は登録文化財の船場ビルディングや重要文化財の綿業会館など、多くの近代建築が残されたエリアである。本建物は昭和5(1930)年に建てられた鉄筋コンクリート造りの建物で、当初は三階建ての建物であったが、後に増築され四階建てとなった。間口が10m程度の小規模な建物だが、窓に見られる独特の意匠や、幾何学的なデザインの通用口、八角形のステンドグラスなど、当時の欧米を中心に流行したアール・デコ様式でまとめられた佳品である。

奥野家住宅:阪急宝塚線「岡町駅」から東に約300メートル、能勢街道から分かれてすぐの脇街道に面して建っている。当家は阿部領桜塚村の庄屋、年寄りを勤め代々「庄兵衛」を襲名した。江戸中期から明治時代の建築物のうち、主屋、長屋門、土蔵等8件が登録されている。主屋は入母屋造の大型農家建築で、江戸中期の建築と考えられる。平成7年の阪神淡路大震災で大きな被害を受けたが、原型を損なうことなく復旧し、「桜の庄兵衛ギャラリー」として、コンサートや展覧会場として積極的に活用している。

大阪ガスビルディング:中央区平野町で御堂筋に面した角地に建つ社屋である。大正から昭和にかけて、関西の建築界で活躍した安井武雄の設計で、昭和8年(1933)の建築である。鉄骨鉄筋コンクリート造8階建、外壁は1〜2階を黒色の石貼り、上部は白色のタイル貼りとする。水平垂直の壁面意匠を取り混ぜた外観は、現代のオフィスビルにも通じる構成であり、内部も質の高い意匠である。新しい建築材料を用いて優れた造形美を生み出しており、近代建築の一つの到達作品として、御堂筋のランドマーク的存在としても貴重。

大阪市立大学本館:住吉区杉本町の市立大学1号館である。昭和9年(1934)に前身である大阪商科大学本館として建設された。鉄筋コンクリート造3階建、東西に長く正面玄関中央に高い塔屋を持つ。塔屋が取り付く中央部は、窓を縦長に狭くして壁面を表現しているが、両翼は開口部を大きく取って縦の柱形を強調した壁面構成とするなどにより、外観に変化を与えている。設計は大阪市土木部建築課であり、技術者の多くは必然的様式を追及した「日本インターナショナル建築会」に所属していた。
大阪住吉教会(日本基督教団):住吉区東粉浜にある。この周辺は南海本線と阪堺線に挟まれた狭い地域で、東側には帝塚山の住宅地が広がる。教会の創立は明治38年、近くの民家を使っての布教活動に始まる。現在の建物は大正8年(1919年)の建設で、信者の愛情によって今日に伝えられている。木造2階建の小規模で簡素な造りである。教会堂建築に精通した知識や技術をもった建築家の作品ではなく、地元大工さんの素朴な意匠の教会堂建築であり、大正時代の洋風建築をめぐる時代風潮を窺うことができる作品である。
大阪大学共通教育本館:大阪大学豊中キャンパスの小高い丘の上に立つ共通教育本館(イ号館)は、昭和3年に旧制浪速高等学校の本館高等科校舎として建設された。4階建て(一部5階建て)延べ面積4,257uの建物である。竣工当時、「校舎はフリースタイル近世式、鉄筋コンクリートで、ほととぎすの名所なる阪急石橋村付近の待兼山に聳立(しょうりつ」し、峡水をたたえた池に臨んでいるだけに高等学校中では風景海内一と折り紙がついている」と新聞報道された。現在は、1階部分に大阪大学総合学術博物館の展示室が開設されている。

大阪大学待兼山修学館:大阪大学豊中キャンパスの西端にある。昭和6年(1931)に大阪帝国大学医学部附属病院の石橋分院本館として建設され、この度大阪大学の総合学術博物館としてリニューアル開館した。西面する玄関を中心に両翼が延びる対称形の平面とし、鉄筋コンクリート造3階建のモダニズム建築である。立地は景観美を歌われた待兼山山腹にあり、近くに平成16年登録の大阪大学共通教育本館もある。大学では両建築を大学の発展を物語る歴史資料として、良好に保存活用する計画である。

岡田家住宅:吹田市千里山西にある。この地は大正9年(1920)に、第8代大阪商工会議所会頭の山岡順太郎の会社が、サラリーマン層の住宅難緩和を目的として、北大阪電鉄所有の10万坪の土地を譲り受けて開発したもので、田園都市を彷彿とさせる街区が特色である。当家は開発者が大正末年に設計施行したが、購入者は武田五一の師事を受けた建築家の岡田孝男で、昭和13年に当時の住宅改善を意図して、大改造を行った実験的住宅でもある。近代の郊外住宅地と住宅の変遷を学ぶ史料としても価値が高い。

岡本家住宅:創業元禄15年(1702)の醤油醸造業「唐津屋」として貝塚市に伝わってきたが、昭和30年(1955)代初期に廃業に至った。同時に醸造場や関連する倉等は失われたが母屋と土蔵が現存する。土蔵のうち最も古いものは、同家では「享保蔵」(1720年頃)と呼称され伝えられている。母屋の初代は寛文10年(1670)とされ、現在のものは安政4年(1857)の上棟である。なお、石積みの庭も寛文の頃の作と伝えられている。

カタシモワインフード貯蔵庫:柏原市太平寺にある。市の地場産業の一つに「ぶどう」生産があり明治以降全国規模の生産量を誇る。ワイン醸造も明治から軌道に乗りはじめた。この貯蔵庫は大正後期頃の建設とされているが、ぶどうの生産が大きく発展した時代に、出荷時期をずらして付加価値をつけるという、生産者の知恵から生まれた貯蔵庫である。ワインの醸造に成功後は、ワイン倉庫として使用されて現在に至る。近年までは井戸から地下水を汲み上げて室温を調整していたようで、地場産業に関連した近代化遺産である。

片桐棲龍堂:堺市西湊町の旧紀州街道から少し東の中筋に面する。当主は代々「寛龍」名を世襲することから、龍が棲む館、また龍穴上の館という意味を込めて『片桐棲龍堂』と名づけられた漢方専門の薬店である。主屋、蔵等7件が登録されている。主屋は6間取平面の2階建て町屋であり、文化年間の記録や襖絵が所在することから江戸後期の建築と推察される。当家は、伝来した医学資料の他、全国規模での漢方資料を収集することから海外でも著名である。伝統的な建築の活用に加えて漢方資料の収集展示は珍しい。

観心寺恩賜講堂:河内長野市寺元の観心寺境内にある。昭和3年(1928)の昭和天皇即位の大礼に京都御苑内に建設した饗宴場施設の一部である。当時、観心寺にあった「大日本楠公会」の修養施設として下賜された。構成材は京都から鉄道で運び、地元有志等が牛車と人力で運んだ映画も残る。仮設建築ではあるが、寄木の丸柱や箱状に曲線で造った梁等で構成され、和風の小組格天井に洋風シャンデリアを吊るした華やかな意匠である。和洋混交宮殿建築の遺構として近代史的にも意義がある。

感田神社:感田神社は、南海本線貝塚駅の近く、貝塚市中に所在する。現在は開発も進み、往時の風景は失われてきているが、感田神社は、中世以来、この地方の経済文化の中心地のひとつであった貝塚寺内町の東端に位置していた。神社の創建時期は明らかでないが、近くの貝塚村と掘村から祭神を勧請したのが始まりという。境内には、宝暦8(1758)年の神馬舎や、安永9年(1780)の神門をはじめ、江戸時代から近代に至る神社の施設が残されており、歴史的な景観を今に伝えている。

願得寺:門真市御堂町にある。光明山願得寺と称し15世紀末に第8世蓮如上人が真宗念仏道場を開いたのが始まりで、古橋御坊と称した。その後、永禄年中に兼俊実悟が加賀国鶴来町にあった願得寺の寺号をこの地に移して開基とした。寛文5年の本堂と寛永頃の鐘楼は府の指定であるが、宝暦2年(1752)の玄関、江戸末の書院、明治期の客間、太鼓楼の4件が登録文化財である。周辺の住宅開発が進む中、境内には市の保存樹である楠の大木とともに、歴史的景観形成上貴重な真宗伽藍建築が良好に残されている。

岸本瓦町邸:中央区瓦町の東横堀川にかかる大手橋近くにある。大小の箱を組み合わせたようなモダンな構成であるが、外壁は風格ある龍山石の石貼りである。昭和6年(1931)に、住友工作部で設計を担当した笹川慎一の設計であり、そのためか、前年に完成した住友ビルディングとの類似性がある。居間に設けた優れた意匠で豪華なマントルピースや、階段室の窓のステンドグラスは、室内空間を華やかで豊かなものとしている。大正から昭和にかけての時代的特徴を極めてよく表わす住宅作品として貴重である。

北野家住宅:大阪市の中心部、中央区平野町にあり1928年建築の木造3階建ての町屋造りである。一階外観は改築されているが、二、三階は建築当時のままで、外壁がタイル張り、窓枠は銅版張りである。周辺は戦時中の空襲で大半の建物が焼失した中、奇跡的に残った。建物の左右から前に張り出した「うだつ」や銅版を張った軒先といった昔ながらの防火対策が空襲のときの延焼を防ぐ役割を果たしたと考えられる。二階の押入れには屋根を突き破った不発の焼夷弾に削り取られた内壁を補修した後が今も残っている。
北浜レトロビルディング: 明治45年(1912年)、株仲買商によって建てられた地下1階・地上2階建てイギリス様式の洋館。当時の北浜は全国一地価の高い地域であり、熟練した職人による贅を尽くした造りは銅板葺きの屋根や内部の木製階段、地階の金庫などに鮮明に残っている。大阪府下に現存するレンガ造の建造物としては最古の部類に属し、西洋建築導入期の色合いが強く残る、まさしく『株の街、北浜』のモニュメントともいうべき文化財建築である。第二次世界大戦後は、建築資材の専門商社「桂隆産業株式会社(平成6年倒産)」の本社社屋として利用されてきたが、平成9年(1997年)、大規模な保存・改修工事を経て、建築当時の雰囲気そのままに『北浜レトロビルヂング』として蘇った。現在は、純英国式ティールーム『北浜レトロ』として全国および海外から多くの観光客を集めている。
木村家住宅:西区江之子島2丁目にあり木津川を背にして東面する。道路を挟んだ北東近くは明治の大阪府庁舎のあった場所で、木津川対岸には旧川口居留地が遠望できる場所でもある。家人によると、当家は大正初期の建設と伝え、昭和4年に購入したが、当初は府庁に勤める高級役人の住宅として建てられたという。木造2階建て、外壁はすべて下見板張り、屋根は寄棟造り桟瓦葺である。この建物はかつての江之子島の歴史景観の一部を伝えるとともに、明治から大正初期の木造洋風住宅を知るうえでも貴重である。

ギャラリー再会:浪速区の通天閣近くにある。間口3間で奥行きは深く、手前は店舗として中庭奥の居住用和室部分に連絡する。正面二階には二連のアーチに捩れのあるエンタシス柱のベランダ、装飾の多い窓飾りや壁面に埋め込んだ色タイルなど、特徴的な外観は周辺の家並みの中で際立つ。設計は日本建築学会作品賞を受賞した石井修の昭和28年の作品である。当初は喫茶店であり、近所に劇場などもあったことから、片岡千恵蔵らの芸能人も来店したという。現在は個人ミュージシャンの演奏会場として活用されている。

葛原家住宅:富田林市常盤町にあり、東側には重要伝統的建造物群の寺内町が広がる。当家は代々南会所町に本邸を構えた南葛原家の別邸として、大正13年(1924)に建設された。全体意匠は大正期から見られるコテージ風である。セメント瓦の急勾配の切妻屋根がT型に交差し、玄関出窓等に特色がある。内部は、2階に10畳の床飾りのある座敷を構えるところが特異である。建設当時は、寺内町の瓦屋根(甍)で埋められた景観に隣接して、洋風別邸の出現はかなり注目されたものと思われる。

源ケ橋温泉浴場:生野区林寺の生野本通商店街から少し入った路地奥の銭湯である。昭和10年(1935)頃の建設で木造2階建、屋根は茶褐色の桟瓦葺、棟の両端に鯱を乗せる。2階の正面はエンタシスの柱を控えたアーチ窓と、その両側に“自由の女神”像を2体置き側壁には丸窓が開く。2階部分は当初はビリヤード場であった。玄関奥の男女の脱衣室はアーチ式の石造飾をつけて格天井にシャンデリアを吊るす。全体として当初の形式をよく残しており、昭和初期の庶民の息吹が感じられる建築である。

小谷城郷土館:堺市豊田の泉北丘陵にある博物館施設である。当家は鎌倉時代から続いており、武家道具や各種農具等の歴史資料を幅広く収集保管し展示も行っている。前面道路からの急勾配の石畳の上には、泊太藩の搦手門を移したと伝えられる長屋門がある。敷地の中ほどに大和棟の主屋を構え、歴史資料の展示施設に活用している。主屋は江戸時代後期頃とされ、玄関式台を構え六間取りの居室と土間にかまどを設置する。この資料館は伝統的な建造物を活用した博物館施設として親しまれている。

小林新聞舗店舗兼住宅:大阪市の旧平野寺内町にある。この地は中世末から堺と並ぶ自治都市として栄え、江戸期の町屋が点在して残り、歴史を感じる場所である。当建築は昭和4年(1929)の竣工で、商店街に面して鉄筋コンクリート2階の店舗と、その奥に木造平屋の住居が接続する。外観は柱形を造り出して4間に区切ってアーチ窓を並べる特徴的な意匠である。町内に15箇所ある「平野町ぐるみ博物館」の「新聞屋さん博物館」を横に設けている。近代の平野を体感できる建物として貴重。
兒山家住宅:堺の旧市内と泉北ニュータウンの間にある田園風景の広がる陶器北にあり、江戸時代、大庄屋・代官を務めた本家から約200年前に分家した時建てられた。土塀に囲まれ、長屋門を構え、屋根は本葺きで旧豪農屋敷の特徴を表している。建材には当時所有していた天見の山の松材が使われている。天保年間のお祓い札のある座敷部は大坂画壇の金子雪操筆の襖絵や壁があり、施薬の道具や、明治期の兒山銀行の歴史を伝えるものも数多く見られる。大正期に煉瓦積みに作りかえられた竈は今も使われている。

金光教玉水教会会堂:大阪市西区江戸堀にあり東側は肥後橋商店街である。建物は木造平屋一部2階建である。屋根は入母屋造銅板葺として南北にそれぞれ二つの千鳥破風がつく伝統的な意匠である。内部の内陣部分は3間に分けて、奥部分は祭壇としている。総て檜の上質材を用いている。関西で多くの良質な建築設計を行った池田谷事務所が、昭和10年(1935)に設計した。当教会会堂は伝統様式に従った昭和初期の近代和風建築の好例といえ、周辺のまちなみ景観に落ち着いた雰囲気を与えている。

西條合資会社旧店舗:河内長野市長屋町にある。南海電車河内長野駅に近く、旧高野街道に面して、酒造業を営む商家である。銘酒「天野酒」は、室町から戦国時代にかけて天野山金剛寺で作られ、当時の武将等が好んだ「僧坊酒」が起源である。秀吉はこの酒を特に愛でて、金剛寺に良酒専念を命ずる「朱印状」を下付した。これを、昭和に西條蔵で復活させたものが「天野酒」である。建物は幕末頃の建築で、ツシ2階に五つの虫籠窓を連ねた、造り酒屋に相応しい風格を備えている。駅に近く周辺の歴史的町並み景観に好印象を与えている。

阪之上家住宅: かって大阪南部の海浜別荘地であった堺市浜寺にあり、近年立て替えられた主屋とそれに連なる接客用の洋館と名工の棟梁の作とみられる質の高い離れ座敷棟を有する。1921年(大正10年)に建てられた洋館・外壁と1934年(昭和9年)に建てられた離れ座敷・蔵・渡り廊下の計5件が登録されている。洋館は鉄骨レンガ造りの2階建で、室内には3室に暖炉を配し、近代建築運動の特徴のセッション式を取り入れている。離れ座敷は本格的な木造平屋建瓦葺和風建築で、技術の確かな大工棟梁の作品と評価されている。

桜塚高等学校(大阪府立)塀(旧豊中高等女学校周塀):大阪府立桜塚高等学校は、昭和13(1938)年に豊中高等女学校として創建された。今回登録された塀は、学校の周囲に一部残る創建時の塀である。この塀は高さ1mほどのレンガ造りの柱をおよそ2mおきに配置し、柱の間に鉄筋コンクリート製のパネルをはめて造ったものである。高さを抑え、可愛らしい桜花を象った透かし孔を配した塀は見る人に威圧感を与えない。創設された当時の郊外地の様子を反映しているとともに、もと女学校らしい穏やかで気品のある佇まいをみせている。

佐竹ガラス:和泉市幸にある昭和2年創業のガラス工場である。近年ではめずらしい棒ガラスを溶解して手作業による色ガラスを造っている。主屋は昭和16年(1941)建設で、柱等の構成材は太く良質な材を使用して強固に組み上げられている。昭和初期のガラス調合場、溶解場、作業棟、事務所等の工場施設4棟と敷地の鬼門に鎮守舎がある。すべて木造の建築であり、ガラス工場が伝統的和風主屋とともに維持されているのは珍しい。地域における近代産業施設としての工場景観をよく維持している。

佐野家住宅:阿倍野区阪南町にある。大阪市における大正末期から昭和初期の第1次都市計画事業において、住宅地開発が行われた場所である。昭和初期の建設で、南側道路に面した間口6間の木造2階建建築であるが、西側3間半の本宅と東側2間半の借家に分かれ、本宅(主屋)は、玄関、6畳前室、座敷そして裏庭と続き、2階は良質な座敷がある。借家部分には戦前増築の本宅用の土蔵があり、6畳と台所、2階は座敷がある。この住宅は本宅正面両側にウダツを上げる重厚な造りであり。本宅と借家が一体化した町屋として貴重。

慈願寺:近鉄大阪線八尾駅近くにある浄土真宗本願寺末の寺である。福井山と号し弘安3年の開基である。当初は八尾久宝寺内にあったが桃山時代に現在地に移転した。境内の本堂等7件が登録である。本堂は文化14年(1817)の再建で、大阪各地の多数の大工により建設された。多様な細部絵様と装飾的な組物等で構成された良質な建築である。本堂のほか、寛文頃の手水屋、明治の鐘楼まで、本堂を中心とした伽藍の表構えを構成する建造物がよく残り、真宗伽藍の重厚な歴史的景観を作り出していて貴重である。

芝川ビルディング:中央区伏見町の北船場地区にある。この地は戦災を免れたことから歴史的建造物が比較的よく残っている地域である。昭和2年(1927)の建設であり、街区の東南隅に建ち玄関を隅角に開く。所有する芝川家は江戸時代から続く唐物貿易商で後に不動産業を営む。当主は関東大震災の見聞から、防火・耐震を配慮した鉄筋コンクリート建築とした。古代マヤ・インカ文明の装飾細部を取り入れ、全体をアールデコ風にまとめている。建築史家の藤森照信氏は、「ある時期の大阪らしい建築の一つ」として賞賛する。

島之内教会:ミナミの繁華街に所在する三階建ての教会堂である。昭和3(1928)年に竣工した。本教会は、設計者の中村鎭(なかむらまもる)が開発した特殊な形状のコンクリートブロックを使う「中村式鉄筋コンクリート」工法で建築された貴重な事例である。合理的な形態に美を見出す中村の思想を反映し、建物は装飾を抑えた箱型だが、正面には間口いっぱいに大階段を設けるとともに、玄関扉、正面の窓も角形にデザインされており、シンプルながら印象的な外観である。
樟蔭学園記念館:樟蔭高等女学校の創立10周年にあたり、昭和2年に在校生保護者、卒業生らの寄附によって学園内に建築された。木造2階建、寄棟造、鋼板葺で、外壁は目地切のモルタル仕上げ。玄関をわずかに突出させ、角塔と駒形の破風で飾り、南東隅部も角塔とする。当初は1階が図書室と書庫、2階が大講義室と会議室兼来賓室であった。瀟洒で充実した洋風意匠を有し、大正モダンの雰囲気を現在に伝える建物で現在も教室として使用されている。
樟蔭学園樟徳館:東大阪市菱屋西にある樟蔭学園の南方に離れて建つ。樟蔭高等女学校の創始者である森平蔵の私邸として昭和14年(1939)に建設された。森は明治8年に生まれ、16歳で材木商となり、その後、森平汽船を設立した。当時の女子教育への関心の高まりに伴い、質の高い教育を目指して、大正7年に高等女学校を建設、近くに本館を構えた。森は全国から上質な材木を取り寄せ、墨がけ木取りを行い、関西、関東の大工に技術を競わせ完成した。学園による女子教育の歴史を伝える建物である。
樟蔭学園樟古館旧洗濯室・旧試食室:樟蔭学園は大正7年(1918)の創立で、二つの建築は当時の学園配置図に明記されている。昭和44年(1969)に園内で移築し樟古館と改名した。現在はクラブ活動等で使用。外観は真壁として柱、梁、筋交等の木部はカラー塗装を施し洋風を意識した大正期の意匠の特徴を表わす。学園の教育理念は“歴史に培われた伝統の知に新しい知力を養い未来に貢献する人材育成”を謳っている。歴史的建造物の保存活用を通じて学園の教育理念を具現化したものとしても価値が高い。

末吉家住宅:平野区平野上町の旧平野郷内に所在する。平野郷は近世初頭に堺と並ぶ自治都市として栄えた。当家は、平野七名家の一つとして朱印船貿易にも携わり、幕府代官への就任や柏原船の運航を行うなど幅広く活躍した。市内の開発では「末吉橋」にその名が残っている。主屋は富士山噴火の前に建設されたと伝えられ、宝永4年(1707)頃とされる。主屋の他、蔵、門,塀の3棟が登録されているが、全て江戸中期の建築である。末吉家の屋敷構えは平野郷の歴史的景観の一部を蘇らせるものであり貴重である。

杉田家住宅:重要伝統的建造物群である富田林市寺内町の北西近くにある。寺内町の周辺には歴史的な町屋が点在する。当家は昭和4年(1929)に建設され、その後、昭和11年に杉田家が購入して今日に至っている。主屋と蔵の2件が登録され、主屋は木造2階建ての洋風建築である。正面の玄関ポーチの構成と装飾はセセッション式の特徴的なもので、応接室等の質の高い内装やスチールサッシの使用など、近代建築技術に秀でた建築家の関与が想像される良質な作品である。

少彦名神社:神社のある中央区道修町は、江戸時代以来薬問屋が集中し、全国への薬種流通の中心であった。当社は安永9年に京都五條天神社から医薬の神である「少彦名神」を迎えたのがはじまりで、本殿と幣殿、拝殿が登録されている。明治43年(1910)の建設で、本殿は間口4尺ほどの銅板葺社殿である。拝殿との間は幣殿で繋ぐ権現造り形式である。伝統的技術による小規模神社であるが、社務所に併設する薬種の資料館とともに、この地域の薬種業者の精神的な要としても貴重な存在である。

住吉神社能舞台:豊中市服部南町の住吉神社境内にある。古くは猪名川流域の住吉大社領の管理を行った神社である。明治の博物館思想の導入により中央区に同8年「大阪博物場」が設置され、その後「府立大阪博物場」と改称され、この能舞台は明治31年(1961)に創建された。その後、大阪天満宮への移転を経て、昭和56年(1981)に当社に移築された。総檜造りの府内で最も古い能舞台である。大阪の近代化の一翼を担った府立大阪博物場に関係した遺構であり、上方大工の高度な技術を伝える作品である。

住吉大社神館:初詣で賑わう住吉大社の境内にある。大正天皇即位の大礼を記念して、大正4年(1915)に建設され、皇室の参拝に際して皇族の休憩,神事の式場等に充てられた建築である。当初は桧皮屋根であったが、昭和に銅板屋根に改変し、近年再び銅板の葺替工事を行った。西面南寄に向唐破風の玄関を開き、四周に広縁を設廻す。東寄りの中央を上段の間とした格式の高い8畳の玉座を中心に7室を設ける。住吉大社神館は近代の和風迎賓館施設として、意匠、規模、格式ともに水準が高い建築である。

清学院不動堂:堺市北旅籠町にある。当院の創立は明らかでないが、元禄2年の堺大絵図には「山伏清学院」とあり、江戸中期に遡る修験の道場であることが知られる。不動堂、庫裏、門の3件が登録されている。建物は江戸末期の建築であり、街路に面した住居の北西隅二間半四方を仏堂とした平面であるが、不動堂は屋根を一段高くしているので独立した建物である。江戸末期には習字手習いの寺子屋としても使われており、町場における住宅兼寺院をコンパクトに纏め上げた事例として面白い。

千里寺本堂:吹田市千里山西にある。昭和3年(1928)に行われた昭和天皇即位の大礼に京都御苑内に建設した饗宴場施設の一部である。関西大学の講堂及び柔剣道場として下賜されたが、その後、昭和28年に落慶した千里寺本堂として組み込まれた。梁行規模は当初を踏襲しており、天井廻り、シャンデリア等はよく残っている。特に三十六灯用のシャンデリアが取り付く姿は、当時の姿を彷彿とさせ、洋風シャンデリアと和風の折り上げ小組格天井の融合は、当時の宮殿建築に対する思潮を伺わせる。

武束家住宅:平野区瓜破東にあり南方向に大和川が流れる。旧集落の中ほどに位置し、周辺の大規模な屋敷地とともに、かつての歴史的景観をよく伝えている。敷地の東北隅で東側街路に長屋門を開く。主屋は、宝暦13年に初代が分家した際に古家を購入したと伝えられ、形式技法上から18世紀前半頃を示す部分がある。ツシ2階は2箇所に虫籠窓を設け、間取りは整形4間取りとして、土間境は突き止め溝の指し鴨居とした古い形式である。大阪近郊における近世地主の建築を知る上に貴重である。

高橋家住宅(洋館):箕面市箕面1丁目にある。当家は親族で分割所有していることから、2回に分けて登録された。箕面川の東側に接して広い屋敷地を構える。大正8年(1919)に有馬男爵の別邸として建てられたが、昭和14年に高橋家が購入し現在に至る。西側の川添いが洋館、東側は和館であったが、現在は洋館と和館は分離して管理されている。洋館は急傾斜のスレート屋根や1〜2階にわたる出窓等にイギリス系意匠の特徴が見られ、出窓に三角形の屋根を被せているが特に派手さはなく、落ち着きがある。家具調度品も含めて購入したことから、照明器具、ゴブラン織の家具、暖炉等の詳細に至るまで良好に保存されている。

高橋家住宅(和館):渡り廊下で西側の洋館と接続しており迎賓館タイプの別邸であることがわかる。主屋をはじめ書斎、土蔵等の6件が登録である。主屋は玄関構えを設けた木造2階建ての数奇屋風建築である。良質な材料を用いた名のある大工の手になる作品と思われる。和館から洋館に至る廊下の途中に張り出しの書斎を設け、上下スライド式の出窓のステンドグラスや花崗岩の暖炉を設ける。当家は明治の鉄道開通後の住宅地として開発された場所であり、地域の町並みを代表する和館、洋館一体で残る貴重な建築である。

高谷家住宅:住吉区帝塚山は、大正中期から開発した大阪市内における有数の住宅地である。当家は大正6年(1917)に開校した帝塚山学院の東側に位置し、大正13年(1924)の建築である。建築主は渡米経験を積み、米国風の建築技術に関心を持ち、自邸を建てるに至った。風見鶏を付けた急勾配の銅板葺き切妻屋根や外観はコテージスタイルをとる洋風住宅である。玄関、階段、応接室のステンドグラス、暖炉飾り、タイルなどは、船便でロスアンゼルスから取り寄せられ、洋風折り上げ縁をもつ格天井や暖炉を付した和室など、和と洋の出会いがある。関東大震災を教訓に耐震防火を意識した鉄骨造りの活用など住宅史的遺産として価値あるものと思われる。

竹本章次家住宅:貝塚寺内町を南北に区切る旧紀州街道西側に当たる西町にある。周辺部は江戸期の町屋が若干残り比較的落ち着いた景観を残す。当家は古屋を購入し内部を大きく改装して使っている。改装前は2列3室型の平面で、東側の無双窓からは願泉寺役所を望見できることから、寺役人や下級武士の住居の可能性があるとされる。建設年代は明確でないが、低い立面や太い格子の無双窓、瀟洒な出格子窓等から江戸末期頃と見られる。寺内町の歴史的景観形成上貴重な建築である。

竹本久男家住宅:貝塚寺内町内で願泉寺背後の道路に南面する。もともと別構造の2軒の建物であり、高さの低い東の主屋と西隣りの主屋の2件が登録されている。東主屋は江戸末期と推察され、正面意匠はツシ2階に荒格子を構えた意匠である。度重なる改造のために当初の状態は知りえない。西主屋は昭和7年(1932)頃の建設で、2階に本座敷を有する一列三間取形式の町屋である。伝統的な形式を踏襲している。両主屋は寺内町の町並みの歴史的景観形成に貢献しており貴重である。

田中家住宅:松原市高見里で近鉄高見ノ里駅に近い。この地はもともと米の生産が多く豊かな地域であり、特に江戸末から明治にかけては河内木綿の生産等の産業集積があり、繁栄した。したがって、この期に家を建て替えることが多く、当家も明治5年(1872)の建設である。主屋等5件が登録である。主屋はツシ2階建ての瓦葺きで、居室部は整形四間取りである。居室部分に比較して土間部は広く、ツシ2階形式で古い形式を踏襲している。明治期の主屋をはじめ戦前の付属屋が良好に残り貴重である。

谷岡記念館:東大阪市御厨栄町にあり、現在は大阪商業大学の商業史博物館及び学園資料室として使用されている。室戸台風で倒壊した大阪城東商業学校校舎の復興として、昭和10年(1935)に建設された。鉄骨鉄筋コンクリート造4階建てである。窓上部の輪郭はアーチ型で、側面に丸窓を付ける。玄関には大理石を貼り、正面中央に五階建ての塔屋を設けて時計台とする。内部は、腰高さまでを鼠色の大理石とし、上方は白漆喰塗りである。設計は、早稲田大学建築学科の清水、福田の両氏、監督は大阪城天守閣を設計した波江悌夫が担当した。東大阪地域を代表するモダニズム建築の好例である。
玉手橋:柏原市と藤井寺市の境を流れる石川に架かっている、めずらしい5径間連続吊橋である。明治41年に柏原市側に玉手山遊園地が開園するが、近鉄電車の前身の一つである大阪鉄道が、昭和3年(1928)に園地への利便性を考えて架設したものである。歩道橋として遊園地の賑わいに対応し橋幅は比較的広くしている。4箇所の主塔は欧風のキャッスル様式で、児童遊園地への導入橋として、子供達に夢を与えるデザインになっている。残念ながら玉手山遊園地は平成10年に廃園されたが、橋は地域のランドマークとして今も生き続けている。
大念仏寺本堂:平野区平野上町にある融通念仏宗総本山大念仏寺の本堂である。寺は、室町から戦国時代を通じて自治都市・商業都市として栄えた旧平野郷の一画を占め、多数の国宝、重要文化財等を伝えている。現在の本堂は寛文3年建設された本堂が明治31年に焼失した後、昭和13年(1938)に旧規模を踏襲して建設された。府内最大級の木造建築である。作者は、東本願寺等の大規模真宗本堂を手がけたことで知られる名工、伊藤平左衛門である。大規模ながらも軽快で格調高い意匠にまとめられている。

通天閣:浪速区の新世界に建つ。明治に天王寺公園一帯で開催された第5回内国勧業博覧会の後、初代の通天閣を建設したが戦災で消失、その後昭和31年に、地元の商店主や住民の熱い思いで二代目の通天閣が完成した。設計は鉄骨構造の第一人者である内藤多仲。鉄骨及び鉄筋コンクリート造、地上103m、四角形の建屋に上すぼまりの八角形鉄塔を載せ、展望台は上下2層とする。内藤は「場所がらを考えて四角ばらずに庶民に人気と親しみが持たれる塔姿にした」と述べている。大阪のシンボルである。

築留二番樋:柏原市上市にある。奈良盆地から大阪平野に流れる大和川は、元禄期までは柏原付近で北西に折れ曲がっていたが、たびたび洪水を起こすことから、宝永元年に堺方向へ直線的につけ替えられた。この樋は、明治から大正にかけて設置された大和川から旧長瀬川への農業用取水路である。イギリス積みの煉瓦と花崗岩からなるアーチ構造であるが、断面でみる壁面は垂直ではなく、他に類を見ない馬蹄形である。当樋は大和川つけ替えの歴史に関連するとともに、近代農業灌漑施設の事例として貴重。

辻家住宅:大阪狭山市池之原に所在する。この地は行基菩薩ゆかりの狭山池の西側に位置し、当家は江戸時代末期に周辺村落の庄屋を務めていた。敷地は南向きのほぼ矩形で、主屋等7件が登録である。長屋門を潜ると正面に明治12年(1879)建設の大和棟の主屋がある。現在の所有者はしばらくドイツに滞在していたが、古い建築をうまく活用しているヨーロッパの住宅事情に共感し、帰国後は建築家と相談して外観を残し、内部は近代的な生活に合わせて改装した。伝統的民家をうまく再生活用している早い頃の事例である。

辻野家住宅主屋:辻野家住宅は、河内長野市北部の向野町に所在する。東高野街道沿いの敷地の中央に南面して建つ木造平屋建ての建物で、18世紀中頃の建築であると考えられる。この地域は、江戸時代に現在の滋賀県にあった膳所(ぜぜ)藩の河内領の一部であり、辻野家はその代官を代々勤めた家柄であった。本住宅はその家柄にふさわしく、主屋の5室に加えて、角座敷を設けている他、玄関棟を付けて式台と「使者の間」を備えている。地方代官を務めた上層農家の様子を今に伝える建物である。

寺田家住宅:柏原市を南北に通る奈良街道に西面する。東方向への緩い上り勾配の敷地に建つ町屋である。当家は藤井寺市に居を構えていたが、江戸期は代々この地で庄屋を勤め、北条屋の屋号で油粕問屋を営んだ。明治23年の天皇による大阪・奈良への行幸では、皇后主従の休息所にもなった。主屋、離れ等7件が登録されている。主屋は江戸後期の建設と推察され、つし2階の大型六間取り形式の町屋である。多くの町屋が取り壊される中、街道の歴史的景観を残す建築として貴重である。

寺西家阿倍野長屋:昭和7年に建築された2階建の4軒長屋である。戦前は庶民の都市住宅として長屋が大阪の街を埋め尽くしており、いたるところで見られた風景であった。長屋としては、全国初の登録文化財である。日本で初期の土地区画整理事業の区域内にあり、建築当初からのガス風呂が特徴で、裏には坪庭を配している。現在、3軒が飲食店に変身し、懐かしさの中での食事が人気で、阿倍野区の名所として賑わいをみせている。
(H15,12登録有形文化財)

桃花塾:桃花塾は富田林市北部の丘陵地に所在する、知的障害を持つ人々の生活を援助する社会福祉施設である。桃花塾は大正5(1916)年に大阪市天王寺区細工谷で創立されたが、昭和8(1933)年に現在地に移転した。今回、登録された本館と教室棟はこの時の建築されたものである。本館は、木造二階建の建物で、落ち着いた外観の建物である。教室棟は木造平屋建ての建物で、本館とは渡り廊下でつながれている。いずれも昭和初期の木造教育施設の好例であり、明るく開放的な建物と緑の多い敷地環境が調和した、簡明で良質な福祉施設である。

桃林堂板倉家住宅:八尾市東本町で近鉄八尾駅に近い。屋敷地は河内木綿を商う木綿問屋の所有であったが、大正14年(1925)に板倉家が購入、桃林堂菓子店を創業して今日に至っている。主屋の建設年代は18世紀前半頃とされる。南面道路に面して優れた正面意匠を表わし、現在では数少ない大和棟形式の茅葺町屋である。大戸口右手の土間部分は菓子店に活用、居室部分は当初4間取とされる。駅から近く新しい住宅が多い中、茅葺屋根を維持する町屋として歴史的景観形成上極めて貴重である。

土肥家住宅主屋:土肥家住宅は大阪市西区九条に所在する。本住宅は昭和11(1936)年に大きく修理・改造を受けているが、もとは明治10年代に建築されたと考えられる。木造二階建ての建物で、一階は、東端に通用口、中央に本玄関、西に出格子窓を構えている。二階両端にはうだつをつくる。本玄関の奥には内玄関と台所の土間が続き、その上部は吹き抜けとなっていて、豪快な梁組を見ることができる。大阪市内では戦災と都市化によって明治初期の町屋はほとんど残っていない。本住宅は、数少なくなった近代町家の風情を伝える建物である。

中内眼科医院:富田林市の重要伝統的建造物群保存地区の中にある。大正10年に国分銀行が土地を入手し、同13年(1924)に建設した。その後、三和銀行富田林支店を経て、昭和51年から中内眼科医院が所有し今日に至る。建物は角地に建って東西に長く、東南角を玄関ポーチとする。2階高さまでは半円形のアーチ窓を並べ、3階窓には窓台を取り付ける。内部は診療室と待合室に当てられ、改造もあるが大正期らしい意匠も残されている。近年外回りを復原的に改修し当時の趣をよく回復している。

中山家住宅:松原市別所にある。近世初期から庄屋を務めた旧家であり、綿や菜種の栽培と販売等を行い、地域の経済発展にも寄与した。主屋、長屋門他14件が登録されている。主屋は文化2年(1805)の建設で他は明治期までに整備されたようである。敷地は南北にやや長く中央南寄りに主屋を配置する。南に玄関を突き出す整形六間取り平面である。土間部分には拡張が見られるものの、居室部分の間取りは当初と変わりがない。主屋の建築年代が明確な大庄屋の遺構であり、付属屋等もよく残り極めて貴重である。

並河家住宅:貝塚寺内町内の東寄に位置する。願泉寺御坊卜半家の重臣を勤めた家とされる。建物は前面と背面が街路に面し主屋と蔵の2件が登録である。主屋は天保3年(1832)の建築である。食い違いの六間取りの土間に2室を配した八間取りで、よく当初の姿を残している。大戸口右手に式台玄関を配して内部の正面に床構えを配するなど、町屋とは異なる意匠構成を取る。卜半家来屋敷としての特殊性かも知れない。建築年代が明確な上に改造も少ない貴重な遺構の一つである。


成子家住宅:
阪南市尾崎の浪速酒造で著名な造り酒屋である。当家は江戸時代末期から代々この地で造り酒屋を営み、大正5年(1916)建設の主屋のほか、同9年までの離れや土蔵等9棟が登録である。主屋は2階の階高が意外に低く、開口部はツシ2階としてすべて虫籠窓とするなど、外観に古い趣がある。酒蔵2棟は江戸期と見られる古風な小屋構造を残し、酒の貯蔵のためのタンクを備えている。主屋と大きな酒蔵が一体化した佇まいは尾崎の歴史的町並みの貴重な構成要素である。

南天苑:河内長野市山間部にある天見温泉の料理旅館である。本館は堺市大浜にあった温泉旅館「潮湯」の施設として大正2年(1913)に建設された。設計は辰野・片岡建築事務所の設計である。明治から大正期に関西建築界で活躍した人物たちであり、辰野金吾は重要文化財日本銀行や東京駅舎の設計で有名。この建物は、昭和10年頃に現地に移築し活用している。和風を基本として諸処にモダンな意匠を取り入れ、大正から昭和初期の温泉地の料理旅館の姿を良好に伝えている。

西山家住宅:豊中市の岡町住宅のほぼ中央にある。この住宅は宝塚沿線では明治43年開発の室町住宅に次ぐ古さである。西山家が大正元年に主屋付で購入し、その後、昭和4年に離れ座敷、茶室等を建設した。その際、庭園研究家で作庭家でもある重森三玲(しげもりみれい)による枯山水の庭が造られ、近代の数奇屋建築と庭との一体空間を出現している。今回の登録では大正期の洋館と離れ座敷等が登録されたが、西山家の一連の近代建築は、近代の枯山水庭園を囲むように配置され見事な景観をみせている。

念仏寺本堂:天王寺区上本町4丁目にある。この一帯は上町台地上に位置して大坂城や四天王寺にも近く、大阪の歴史・文化の中核を担う重要な役割をはたしてきた。念仏寺は浄土宗に属し、徳川期に形成された寺町の一画を占める。本堂のほか、表門、庫裏等を残し、歴史的景観をよく保っている。本堂は棟札から天保13年(1842)の建設が明確であり、今後百年の保存継承を目指して、奈良県から社寺専門の瓦葺職人を呼び、平成9年に屋根替え大改修を行い、江戸の記憶が未来に引き継がれることになった。
畑田家住宅:羽曳野市郡戸にあり、主屋はつし二階を持つ田の字型平面に座敷がつき、土間の梁架構は古い伝統をよく伝えている。これらに長屋門とそれに続く2棟の蔵、付属屋、納屋を配した屋敷構えは明治初期の旧家の趣きをよく残している。平成11年6月に国の登録有形文化財に登録された。小・中・高校生とその保護者を対象とする「畑田塾」、一般公開、フォーラム、音楽会、出版などの文化活動を羽曳野市と畑田家住宅活用保存会の支援のもとに行っている。

畑田家住宅の応接室、仕切塀、築地塀:羽曳野市郡戸(こうず)に所在する。当家は江戸時代から村落の庄屋を務め村の管理運営に携わってきた。敷地の東と南は道路が接し、主屋は敷地の北東隅で南面する。主屋、長屋門等の6件はすでに登録されているが、平成20年に、主屋の南側に接続する応接室と仕切塀、東築地塀、南築地塀、西築地塀の5件が追加登録され、合計11件になった。この5件の追加登録は、当家の建築変遷を補強するとともに、主屋を中心とした屋敷構成を明確なものとして、屋敷地全体の歴史的景観保存に貢献するものとして価値がある。

廣海家住宅:貝塚寺内町の中央部西寄り、旧紀州街道を西に入ったところに位置する。江戸から明治期にかけて廻船問屋を営み、明治3年に北海道産物会所御用達格となり、同15年には貝塚港で扱う米の五分の一を取引していた。敷地は一街区を占め、主屋等8件が登録されている。主屋は北側道路に面して長大である。左手が土間、居室部分は六間取に座敷を付加した平面形式で、座敷上は2階部屋を設ける。文久元年(1861)の建設である。寺内町の町屋にとどまらず、廻船荷受け問屋の遺構として貴重。

伏見ビル:中央区伏見町にある。伏見町は南側一帯を占める道修町と接し、近代大阪の経済・文化を担ってきた船場の中心部でもある。東隣は登録文化財の青山ビル、周辺には指定・登録・未指定等の近代建築が残る。大正12年(1923)に事務所として建設され、ビリヤード場や喫茶店が入っていたが、その後、旅館、理髪店、飲食店等に使用された。角地に建つので、角を丸くして景観に優しく控えめな装飾が施されている。現在の所有者は、旧店舗にあまり手を加えずにギャラリーに活用するなど、古い建物を大切に使用している。

藤本家住宅:西国五番札所として有名な、藤井寺市葛井寺の南門から100mほど南に位置する。この地は古来重要な街道が交差する要衝の地であり、近世は稲作と綿花生産で比較的生産力の高いめぐまれた地域であった。当家敷地は南北に長く中央西寄りに主屋を配置し、表門、蔵等10件が登録されている。主屋は構造意匠から江戸末期の建設と推察され、四間取り平面が変形した五間取りであったが明治期に何回かの改修で現在の姿になった。農家建築であるが洗練された町屋の要素を含み、うまく改造した伝統的住居として価値がある。

松田家住宅主屋:松田家住宅は、大阪狭山市の茱萸木6丁目に所在する。本住宅が所在する地区の中央には西高野街道が通っており、本住宅は街道に面した要地を占めている。本住宅は明治後期の建築で、江戸時代に茱萸木村と菩提村の庄屋および菩提村の水下惣代を勤めた大庄屋古川家の住宅であった。周囲に庇をまわし、屋根には煙出しを備え、正面中央には入母屋屋根の張り出し玄関を設けた豪壮な佇まいは、上層農家の面影を今に伝えるものである。また、座敷には良質な座敷飾りを備えており、格式の整った近代和風建築の好例である。

三木楽器:中央区北久宝寺にある。創業は文政8年で「河内屋佐助」と称し書籍業を営む。楽器の販売は明治21年から始め、日本の近代音楽文化の歴史とともに歩んできた。現在の建物は、創業100周年を記念して大正14年(1925)に建設された。外観はドイツのピアノ会社スタンウエイの本社建物を模したと伝えらる。茶渇色のレンガに裾部分は花崗岩を貼り、2、3階の窓の間は植物のレリーフを飾る。玄関上には美しいステンドグラスを設け、内部は楽器を展示しているが創建時の姿を良く留めている。歴史に裏打ちされ業界を主導する企業施設としても貴重。

ミナミ株式会社:福島区福島で国道2号線に正面を向ける。昭和9年(1934)に旧川崎貯蓄銀行福島出張所として建設されたが、現在はアパレル企業のミナミが所有する。設計はベルリン工科大学に留学し、様式建築に造詣深く、川崎貯蓄銀行の本店や支店を手がけた矢部又吉である。正面側は全体に緩やかな円弧曲線を描き、4本のイオニア式円柱を取りつけて立体感を増すとともに、両端はパルメット状の飾りで華やかさを演出する。小規模で良くまとまった昭和初期の様式建築の典型である。

南川家住宅:貝塚市の寺内町内のやや西寄りに所在する、主屋と離れの2棟である。両建築ともに建設年代を示す資料はないが、ともに同一敷地内で旧紀州街道に面して存在した母屋に附属した建物と伝える。主屋はそれまであった建物の古材を転用して昭和2年に建設され、離れは明治期建物の古材を極力残して修理が行われている。二つは規模の小さな建物であるが、近世の町なみ景観を残す貝塚市の寺内町の中にあって、明治期の町屋の様子を伝える遺構として価値がある。

南家住宅:阪南市自然田の丘陵地帯にある。江戸時代は近隣の庄屋を勤め、大正期から昭和30年代までは酒造業を営んだ。敷地の形状はほぼ矩形であるが、西寄りの三分の一は垣内(カイト)と呼ぶ蔬菜や果樹等の栽培を目的とした空間で、東寄りの居住部分とは仕切られている。主屋など7件が登録文化財であり、主屋は明治22年(1889)頃と推察され、入母屋造桟瓦葺のツシ2階建である。大阪の南部地域における大規模農家建築を理解するうえに貴重な遺構である。


御幸森天神宮:生野区桃谷3丁目にある。昔この地は猪甘津(いかいのつ)と呼ばれ、難波の入江の港であった。難波に都を定めた仁徳天皇が鷹狩の際に、度々この森で休息をしたことから、天皇崩御の後にその遺徳を偲び御幸森天神宮が創建された。施設の老朽化に伴って昭和5年(1930)に本殿、幣殿、拝殿などを再建。設計施工は大正・昭和の名工とされる宮大工の吉田種次郎が行い、日本建築史上優れた意匠を展開した鎌倉期のデザインに習っている。当神宮に対する地元の崇敬は厚く、文化遺産であると同時に地域コミュニティーの要としても貴重である。

村司家住宅主屋:阪急宝塚線蛍池駅に近い。この地は江戸期に麻田村と呼ばれ、当家は麻田村庄屋の村司家の初代分家といい、代々「林蔵」を名乗って「糀屋」(こうじや)の屋号を名乗った時期もあった。建物は江戸末期頃と推察され、茅葺平屋建て四間取りの農家建築として、この地方の典型的な平面構成であった。昭和27〜28年ころに2階建の数奇屋風の建築に改造し、茶道教室に利用している。麻田地区で少なくなった近世住宅遺構に数奇屋風をたくみに合体させてリノベーションに成功した事例である。


免山篤家住宅:
茨城市北部で佐保川に添う集落を代表する民家である。この集落の家々は急峻な崖に石垣を築いて屋敷地とするが、当家も西面は自然石を高く積んだ石垣が聳えて美しい集落景観を醸している。茅葺の主屋を中心に2棟の土蔵や納屋等から構成され、石垣も登録文化財である。当家には建築関係を含む多くの文書が保存され、それによると、建物は大正元年(1912)に竣工している。座敷周りは繊細で手の込む造りである。茨城市北部の農村集落の中核的存在として、伝統的民家の建築構成を良好に残していて貴重。

八木家住宅:八木家住宅は、河内長野市三日市町に所在する。ここは江戸時代に京・大坂から高野山へ向かう参詣道であった高野街道の宿場町「旧三日市宿」であった。八木家住宅の周辺では、現在でも宿場町の情緒が残っている。当家は江戸時代に木綿問屋として栄え、後に造り酒屋を営んだ。建物の西側を通る街道に面して主屋と土蔵がある。建築年代ははっきりわからないが、主屋は江戸時代後期まで遡るとみられる。建物は後世の増改築を受けているものの、街道に面した大戸や格子などはよく残されており、伝統的な町屋の形式の美しさが感じられる。旧三日市宿の歴史的景観を伝える建造物として価値が高い。


山田家住宅(貝塚市):
貝塚寺内町の中核をなす願泉寺の背後にあり、街路に南面する。当家は願泉寺の住職で領主でもあった卜半家の家来とされる。敷地は間口6間、奥行11間で建物は間口いっぱいに建ち、背後に2階建ての離れが建つ。主屋は19世紀中頃の建設と考えられ、平面は五間取りである。表側は全面改装しているが、みせは蔀戸であったとされる。また、玄関の摺り上げ戸等は伝統的な形式を残している。寺内町の他の建造物とともに、歴史的景観に寄与していて貴重。

山田家住宅(泉南市):小栗街道(熊野古道)近くの泉南市新家中村集落にあって、代々庄屋を務めた豪農の家で、主屋は本瓦葺き2階建て、この地方に珍しい妻入り、間取りは食違い三間取り系の古式を残す点に特徴がある。 民族資料館として3部屋からなる米蔵の内部を整理し、1号館(農機具。民具)、2号館(古書・古文書・文具)をオープン3号館(調度品)は2006年4月オープンに向けて準備中である。見学者からは「懐かしい」「よく残ってましたね」と嬉しい感想を頂いている。

山本能楽堂及び能舞台:中央区徳井町にある。初代能楽堂は昭和2年に現地に建設されたが戦災で焼失、現在の建物は昭和25年に再建された。木造の能楽堂で道路に面した部分は改装されているが、建築躯体として戦後の佇まいをよく保持している。建物前方部は1,2階を吹き抜けとして切妻造桧皮葺きの能舞台と橋掛けを設け観客席を配置する。背後は3階建てとして、楽屋、稽古舞台、控えの間等を設置する。この建築は、外観は改修が重ねられているが内部は質の高い伝統的能舞台の形式をよく備えており貴重。

吉村家住宅:貝塚寺内町のほぼ中程、旧紀州街道を西に一筋入った角地に西面する。15〜6代前から「泉久」の屋号で油屋、金融業を営んでいた。敷地は南北に長く主屋は道路に西面する。主屋、道具蔵、意匠蔵の3件が登録である。主屋は18世紀中頃の建築と推察され、切妻造桟瓦葺で2列3室の六間取平面である。改造は大きいが原型はほぼ復原できる。みせは広い一室で土間境は開放となる。当家は改造が著しいものの、寺内町の町屋の変遷を考えるうえで参考になり、歴史的景観形成上からも貴重である。


利齋家住宅:
貝塚市の寺内町を横切る旧紀州街道の東側にある。先祖の式部は泉州松尾山で出家して利齋を名乗ったが、天正5年に貝塚で還俗し、薬種業を営む有力町人となった。元禄13年には年寄役を勤めている。敷地は広く180坪程を占め、主屋等3件が登録文化財である。江戸中期の主屋は寺内町でも最古に属し、整形4間取形式で主体構造は当初の状態をよく伝えている。離れは大正13年(1924)頃に建て替えられた洋館である。当家主屋は全体に木柄は太く、古風で類例の少ない形式の民家として貴重。

和田家住宅:岸和田市宮本町にあり岸和田城の東側に当たる。和田氏は室町時代に楠正成が和田高家に城を建てさせ、「岸の和田殿」が岸和田の地名の起こりというが定かではない。現当主で27代を数え、建物は昭和5年に建設された。主屋ほか長屋門、蔵等8件が登録されている。主屋は入母屋造本瓦葺の2階建で、2階は軒までを大壁漆喰塗りとして反りを付け、要所に格子窓を設けた重厚な造りである。玄関脇の洋室は放射状に傘を広げた天井根太を添わせ、極めて技巧的である。当家は昭和初期における地元の大工による日本の伝統技術を駆使した作品として貴重。



トップページに戻る